多分五回目のバナナワニ園に、先日行った。
ワニを眺める時間は、仏像を眺める時間にとてもよく似ている。動かないのだ。しかし、生き物のかたちをとったオブジェクトは、そこに生命の律動をはらんでいる。っていうか、ワニは実際生きているんだけど。
不可思議なアルカイックスマイルをたたえたこの上なく優美で艶かしい、衣の襞の美しい仏像は、今にも動き出しそうな、予感とも言えるべき空気をまとっている。こんじきのかぜがふわわとふいてくる。
かたやワニは、背中から尻尾まで規則的に並んだとげとげ、白い手のひら、笑っているような口元、そこからはみ出たぎざぎざの歯、瞑想しているような目、悠久の時を思わせる背中の苔、ふっくりとしたお腹…等々の魅力的な細部を惜しげもなくわたしの眼前に晒し、息づきつつ静かだ。限りなく静かな動物。
バナナワニ園の「餌やりタイム」に居合わせたことのないわたしは、ワニをそのように捉えていた。静かでないワニを見たくない無意識が、餌やりタイムを避けているのかも知れない。だが、餌やりタイムの直後に園に訪れたことはあり、ワニたちはそのような騒乱を微塵も感じさせない静かな佇まいではあったが、水から顔だけ出したなりで静止したその鼻先に鶏肉のかたまりが転がっていたり、ひどいのになると口の端に肉をくわえたまま止まっているやつまでいた。そこまで厳密に餌を残したいものだろうか。鼻先に肉が転がっていたら、満腹といえどもがっついてしまうのではないか。ワニに限ってはそういうことはないらしいのである。
動かないワニの全体を眺め、細部を眺める。その中に、生き物である証拠を見ようとする。首のあたりの脈拍、かすかに内側に握ったりする指先。それすらも、見えないことがある。その微動だにしない中の「生き物感」は、何か抽象的なところに向かう。そして、静かによこたわっているつめたそうな生き物を眺めるうち、自分もその境地に入っていく。ねむい。ねむい。しずか。絶えず水の音がする。
その脳の、脳なんだろうか、まあ、脳の、覚醒と鎮静が同時に起きている感覚が、仏像を見ている時と共通のものがある、というのを、わたしは最近感じている。