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  • 2017.06.09 Friday
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音楽元年

ピアノの隣合った鍵盤を同時に弾いたら、「びゃーん」という、濁った緊迫感のある音が鳴った。ひとつあいだを開けた鍵盤を同時に弾いたら、「しゃーん」と、きれいに整った和音が鳴った。
隣合った鍵盤を弾いた時の、不穏な緊迫感が気になり、場所をずらして何度も弾いた。そしてひとつ開けたふたつの鍵盤のとりすました和音も時々弾いてみて、やっぱりわたしは「びゃーん」というのがいい、とおもった。

(前回これだけ書いてほったらかしにしたのでした)




そばで見ていた母(インディーズピアノ講師。実力はゼロに毛が生えた程度)が、それは「二度の和音」だと言った。

「二度の和音」

その言葉を聞いた時、頭の中で青白い光がチカチカっと瞬いたような気がした。びゃーん、と濁った緊迫感のある和音には、名前がついていたのだ。二度、というのは、分度器のようなことだろうか。含む距離、ということでいいのだろうか。一つ飛びの和音は、「三度の和音」と言うらしいから。
和音に関して全く何の情報もなかった(驚くべきことに、本当に全くなかったのだ。コードというものは知っていた。だが、ギターの押さえ方で覚えていたので、それは単なる座標の情報だった。出てくる音との関連づけが、うまくできていなかったのだ)わたしの世界に、「二度の和音」という概念がやってきた。ちなみにエーツーは「ハモれないアイドル」として有名である。存在するのは、ユニゾンと、「なんとなく高い声と低い声で歌って、ハモるような感じにする」という曖昧な唱法のみだ。後者はたまに失敗する。

二度の和音、というものから、わたしがすぐさま想像したのは二等親、というやつで、つまり、二度の和音に、近親相姦めいたあぶなさを感じたのだ。音の中でもあれこれが起こっているのだな、と理解した瞬間だった。それは、楽器たちの織り成す流れるようなメロディやリズムの重なりの中だけでなく、たったふたつの、びゃーんという音の中でさえも、起こっているのだと、わたしは勝手に感じ入ったのだ。


これは、確実にここ2年以内の出来事で、つまり、そんなことを知らなくても、100こくらい曲は作れたし、10年以上人前で歌って踊っていてまるで平気だったのである。そして、これからもぜんぜん平気である。平気であるが、たまたま「二度の和音」はわたしにもたらされたのだ。





ところで下の動画を、少々長いが見ていただきたい。



これは大好きな大阪のバンド「巨人ゆえにデカイ」の「N-ペンタデカン」という曲だ。
弦をゆるゆるにし、エフェクタをかましまくった、打楽器のようなギターの音で三三七拍子が弾かれる。

「ぼっぼっぼ、 ぼっぼっぼ、 ぼっぼっぼっぼっぼっぼっぼ」


ギターだけで何度か三三七拍子を繰り返したあと、ドラムが入る。それが、一回転ごとに違うところを叩いている。次第に激しくなってゆく中で、そのフレーズが頻繁に変化する。




すみません、ほんとうに音楽を分析する素地がないのです、上の図は、聴いて書き表せるところを拾ってみたものです。

三三七拍子のどこを叩くか、ドラムセットのうちの何で音出すか、というのは、無数に組み合わせがあるわけで、その組み合わせには法則があるわけで、それを瞬時にたったひとつ選び、どんどん変えてゆくというのが、わたしにはさっぱりわけがわからない。それが、鍛錬とセンスと勘によりからだから出てくる人というのを想像すると(想像するというか、目の前で何度もみているのだがそのすごさの詳細については想像するしかない)、圧倒される。


 

さて、その「N‐ペンタデカン」をライヴで観ている時、わたしの、音にまつわるかなり白い世界に、また新しいものがもたらされた。

変則的なドラムフレーズに目眩していたら、ごく隙間のところに小さくて短い音が入った。
わたしはそれを、何故だかその時、「あ、今、子供が生まれた!」と感じた。
音の子供。正確に言えば、酵母菌の出芽のようなもの。後で考え直すとよくわからないのだが、その感覚はとても鮮烈だった。

「二度の和音」を理解した時に感じた、「音の中で様々なことが起きている」というのがずっとあったので、そんなふうに思ったのだろう。もちろんそれはドラムの和田晋侍さんが出した音なのだが、酵母菌からぷくっと出て分裂した子供のように感ぜられた、音の中でそのような玄妙な働きがあったことをその瞬間疑いもしなかった、それによって音楽体験が深まったことこそを、わたしは大切にしたい。





さらに大阪のバンドの話続きます。


これまた大好きなバンド「オシリペンペンズ」の曲に、「ム・ムルム・ムラルル」というのがある。これは動画も試聴も見つけられませんでした。

この曲のリズムが、「すたこら、すたこら」と聞こえる。なんとなく関西風のイントネーションで、「た」にアクセントを置いて読んでみて欲しい。そのように読むと、「とととと、とととと」とただ平坦に言った時と、一小節の割り方が変わってくるだろう。誤差の範疇かもしれないが、「た」が長くなる分、不均一になる。この、「た」から「こ」の間がほんの少しだけもたつく感じが、たまらなくかっこいいのだ。

これはなんなのか、どうやって出してるのか不思議に思い、ライヴの折に、「すたこら」を叩く迎祐輔さんのドラムに注視していた。

「どど(たた)、どど(たた)」とも聴こえる「すたこら」であるが、どど、の所は、バスドラのペダルを踏む時、同じ場所を二回踏むのではなく、足を前後させていた。(たた)の所は、スネア(たぶん)を叩く時、一度目を叩いた時の跳ね返りを利用して二度目のスティックを下ろしていた。ということはわかった。最も力まずに淡々と刻める叩き方なのだろう。ただ、CDを聴くと、そういう構成の音なのかわからない。楽器音痴だからだ。

自分なりに考えて、バスドラとスネアのつなぎ目のズレと、「すたこら」の「ら」の弱さによりかっこいいもたつきが生まれるのだとしたら、そしてそれが関西弁のような響きを持っているとしたら、この「すたこら」はなんと純度の高い肉体の言語だろうかと思うのだ。

オシリペンペンズは、ボーカル・ギター・ドラム(と、PA)という編成なのだけれども、全てのパートがしゃべっているような音がする。いわゆる「バンド的」な音を重ねていくのではなく、3本の蔓草がそれぞれに喋り合いながら絡まっていくような感じだ。その様はじつに珍しく、わくわくさせられる。そのようなバンドを、わたしは他には知らない。知らないだけかもしれないが。




この動画の一曲目は「ハンバーグ」二曲目は「Altered states(ゴリマッチョ)」。






先日、「チャゲアスカラオケ大会」なるものをした。当連載を長らくご覧くださっている方ならご存知かもしれないが、わたしは小学4年生から中学1年生くらいまでの間、初期〜中期のCHAGE&ASKAの熱心なリスナーでありファンであった。当時大流行していた「SAY YES」を友達が貸してくれたのがきっかけで、真面目にファーストアルバムから聴き始めてしまった結果、「演歌フォーク」と呼ばれたいなたい世界観に、10歳そこらの感性はどういうわけかしっくりきてしまったのだ。

成長するに従ってそのことに恥じらいをおぼえ、アルバムを売り払ったり、カセットテープを潰したりした挙句、数年前まではファンだったことさえ都合よく忘れていた。だがある日、ファーストかセカンドに入っているチャゲの曲「嘘」のワンフレーズが突如として脳内に蘇り、戦慄のあまり全てを思い出したのだ。そのことについては以前にも書いたような気もするが、もう一度書く。


わたしを戦慄させたのは以下の歌詞だ。

「思い出にほつれてる一筋の髪を忍ばせ封をする 言葉にならない一言と気づいて欲しくて」

これは五年の遠距離恋愛の末、男と別れた女が未練たらたらに綴った男への手紙、というような曲である。てててて手紙にかかかか髪の毛入れるって!ひえええええ、と、いきなり思い出したわたしは背筋を寒くしたものだ。この曲は、10歳そこらの頃、何のことかもわからずに、雰囲気だけで切々と鼻歌していた曲だ。歌はこう続く。

「拝啓 春の風に誘われて枝には花が満ち わたしの心も華やぐ季節 幸せにしています」

もう一度、ひええええええ!
「幸せです」と書いた手紙に髪の毛が入っているのだ。うおおおおおおお!

さらにこの曲のタイトルを思い出そう。そう、「嘘」です。


・・・・・

わたしは、自分の子供時代の記憶に分け入らざるを得なくなった。チャゲアスというものは、非常に厄介だと、この時思い知ったのだ。以後、オフィシャルサイトで歌詞を検索し、ほとんどの曲をフルコーラスで覚えていて歌えることが発覚、カラオケでその記憶を試す、アルバムをちょろちょろ買い直す、聴き直しては懐かしさと曲のトンデモエッセンス他に悶絶する、という活動が始まる。






自分の捻れたチャゲアス愛に目覚めてからは、ことあるごとに「チャゲアスカラオケやりたい」と騒いできた。そうしたら、全く同じ境遇の者が2名も見つかった。ふたりとも中央線界隈で音楽活動をしている。まあ、わたしが出入りしているのが主にそういう場であるからだが。

満を持して、チャゲアスカラオケ大会の日取りは決まった。わたしは張り切って、散逸したアルバムコレクションのピースを埋めるべく、短期間に5枚くらい買ったのではなかったか。

わたしが思春期以降聴いているのは、鬼子というか蛭子というか、そういった、突然変異体のような音楽ばかりで、それもどうかと思うが、とにかく、CDラックは姦しい「ひるこようちえん」といった体だ(上記に挙げた2バンドも無論)。そんな中に、大量に、チャゲアスというものが流れ込んできた。それは、極彩色の文様のついた、すべすべに磨かれた球のようで、ひるこようちえんにおいては物凄い異様さを放った。

ほとんどが恋愛かそれに類することについての楽曲だ。だが、「ひるこようちえん」のラヴの歌われっぷり、例えば「三日ばっかり付き合って!」(オシリペンペンズ/「モタコの恋愛必勝法」)、「きみがこの世でいちばんぶす」(たま/「きみしかいない」)、「君の右手を壜に詰めていつか空家の床下に埋めてみたい」(人間椅子/「天国に結ぶ恋」)などとは、かなり様子が異なる。とにかく壮大でデコラティヴなのだ。曲調も無駄にインドっぽかったりラテンぽかったりストリングスが大仰に入ったりする。金のかかった、そしてチャゲとアスカ以外の人の手にかかった痕跡がたくさん見られる。詞も、作詞家が作っているものも多い。そして、どこかいびつであることによって魅力を湛える「ひるこ」の面々とは違い、作り込まれていて整っている。ポップミュージックが多くの人の関心事であり、贅沢に作られていたことが伺える音がするのだ。

但し、おしゃれで洗練されたものとかではちっともなく、悪趣味とも言える過剰な盛り付けの上での整いなので、わたしは好きなんだろうと思う。

シンプルな言葉で伝えるストレートなメッセージ、などと謳われるものは単に語彙不足であることが多い。男女の別れや情事に、分厚くゴテゴテしたイメージを盛り込み、リアリティのない(だからこそ浸れる)ラヴソングに仕立て上げるチャゲアス・プロジェクトに、爽快感と感嘆をおぼえている。かつ、子供の頃にわけもわからず聴いて受け取っていたイメージと記憶との二重写しにくらくらし、わたしの音楽の世界はまた、変化しているのだ。


チャゲの元気な曲「CountDown」見つけたので貼っときます。女のついてのイメージの盛り立て方も凄まじいものがある。大人になったらチャゲアスの歌みたいな女に自動的になるのかと、小学生の頃思っていたような気がするが、まったくもってひとつもならなかった。





今、わたしは超私的な、音楽元年を迎えているのではないかと思っている。




お知らせ。

ニヒル牛に、マガジン箱が設置されました!曜日ごとの箱と、不定期の箱です。2コは木曜日の箱で、毎日はがきを書いてニヒル牛に送る「もうろうはがき」というのをやってます。朦朧見聞録のミニミニ版みたいな感じです。見てください。もう、新聞連載持ったみたいで必死じゃよ。まじ見てね!

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