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  • 2017.06.09 Friday
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今日まにあーな

 タイトルは、みうらじゅんと安斎肇がやってたラジオのコーナーから拝借しました。

本日12月23日、渋谷O-EASTにて、水中、それは苦しいのライヴがあります。
ギターボーカルのジョニー大蔵大臣40歳のバースデーライヴです。

詳細はこちらを。

http://suichu.jimdo.com/


わたしは物販スタッフとして会場におりますので、読者の皆様わたしに会いに来てください。「2コに会いに来た」と言っていただけると、自尊心が満たされます。


水中、それは苦しいのニューアルバム「芸人の墓」、もう聴かれましたか。タイトル曲「芸人の墓」については、もういろんな人がいろんなことを言ってると思うので割愛しますが、わたしゃ聴くたび毎回嗚咽するか嗚咽したくなるね。だからむしろ飛ばして聴いてるくらいだよ。この曲を飛ばすとアルバムは20分くらいで終わる。


3曲目の「マジで恋する5億年前」が大好きなんですよ〜。だって、マジで恋する5億年前って、ただのギャグじゃないじゃん、誰もマジで考えたことなかっただけで、マジで恋する5億年前という時間はあるんだよ。まー、今この瞬間がその時だと考えると、恋するのは5億年後だから、もう地球ないかもしれないけど…

このように、誰も考えなかったことを、言葉にしてぽんと言うことによって、照らし出して区切れるわけですよね。言葉は光、ってとてもキリスト教的かつ、近代?現代?的な考え方ですけれども、ひとまずは。何か、壮大な、言語の作用というものを感じてくらくらするんだ、「マジで恋する5億年前」という言葉には。先日、ジョニー(大学で哲学を専攻していたらしい)に、「現代思想をちゃんと勉強しなかったのが悔やまれるから、知ってることがあったらわかりやすく教えて欲しい」と言ったら、「俺もだめだったから教えられることはない」と言われましたが、水中にはやっぱり哲学(ラーメン哲学とかでなく、フィロソフィーね)を感じます。それと詩を。


「マジで恋する5億年前
世界は縞模様」


ねえ?


そして素晴らしいのは、「言葉によって、とんでもない時間が照らし出されたけれども、よく考えたら何も起こっていない」ということだ。
マジで恋する5億年前には、恋のこの字も生まれていないし、恋じゃない、いろんなものが生まれてない。照らしすぎ。恋を貫通して照らしてしまった。何も関係できない。笑うしかない。でも、くらくらしながら。手品もギャグも、無力なのだ。「詩人の墓」を「芸人の墓」に、「詩」を「ギャグ」に書き換えた時、もっとも無力なものに身を捧げた、もっとも勝ち目のない戦いが生まれた。それがパンクってやつじゃねえのか。うん、知らずに言ってますね、わたし。いいことを言おうとして。ごめんなさい。でも。


前にも書いたことを引用します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
水中の何が好きかというと、肉体性の薄さなんだよなあ。
身から出てるんだけど身から出てないというか、何かを指し示すのではない言葉の使い方というか。言葉がぴっちり何かを指し示している、親密で安寧な世界はそこでは崩壊している。
下ネタなようで下ネタではないし、殺意なようで殺意ではないし、愛なようでいて愛ではない。なんでもないのだ。でも、だからこそ、よりシモであり殺意であり愛でありうる瞬間が出現して。
それをとにかく必死でやっているのだ。
アナーキーだけれど暴力的ではない、もっとエレガントなやり方で、笑いに持っていきながら、しかしとにかく必死に。

ジョニー大蔵大臣の、色あいがほぼない声って重要なんだなと思った。声色、なし。だからあの意味のなさ、必死さが伝わってくるのねーと。

わたしがぼんやり捉える「水中、それは苦しい」は、いろんな指し示されていないものと指し示していない言葉が散らかった、白くてあかるくて広い無人の神殿みたいなものだ。

こういう、肉体性の薄さって、男性だからこそ、なのかなと少し感じる。女性の方が肉体とふかく結びついているようにおもう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この、言葉と意味が重なり合っている世界を、水際まで引っ張っていって、そこの結合を水面でゆらゆら揺るがしてくれるのが、スリルがあって、あぶない扉が開いちゃう感じがして好きなんです。やってる本人は、もう水中に行ってしまっているのでしょうけど。あっ、またいいふうにまとめようとしてしまった。



渋谷でお会いしましょうね。








小鳥はとっても歌が好き、かあさん呼ぶのも歌で呼ぶ

 ぎょえー!ごげー!ぼぐえー!


今年はソロライヴを3回やらしてもらったんですけど、3回目で共演者が当日失踪したのでびっくりしました。あーははは。

ソロライヴではその日できたホヤホヤの曲とかをやったりしていて、そういう曲は、完成した歌詞をどこにも書き留めていず、録音もしていないのです。
それで、わたしだけがもよもよ歌っていて、会場でリハをやるまで誰も聴いたことがないわけです。
つまり、わたしの頭の中だけにあるんですね。不思議だなあと思いました。エーツーで曲をやるときは、第一にリーベという共有する相手がいて、歌詞は書いて渡すし、たまには録音してデータも渡す。ここで曲はかんぜんに「あることになる」のですが、ひとりのときはそれがないので、曲が「ある」という根拠はとてーーーも希薄なものなのです。


おもしろい。不思議だ。


楽器を使って曲を作ると、こういうことにはならないんだろうと思うが。たぶん記録するのではないか。
歌というのは、あるひとかたまりのにょろにょろした生物のようなもので、言葉とメロディの断片が少しずつくっついてきて、かたちになってきて、他の単語や散文や音階やリズムとは区別された、何かになったもの。それが例えばいまここで、完成してにょろにょろした生物になった、ということは、わたししか知らないし、わたしだってそれがどういうことかあんまりよくわかってないのです。

歌はどこにあるのだ。

それを、ライヴでお客さんに初めて聴いてもらう時というのは、やはりにょろにょろにとって大切な儀式のような成長段階のひとつだと思います。存在の意味が変わる時だからね。


つまりわたしの作る歌は鼻歌とか、その時だけ流行る替え歌や囃子唄に近いものなのかもしれない。あと、数人の友達の間だけで一瞬流行る、てきとうに作った歌。そういう歌がわたしは大好きで、小学校・中学校の時に友達が作った歌を、まだ覚えているくらいだ。作った子は絶対忘れてるし、録音なんかも当然していないから、わたしが覚えているということによってのみ、その歌は存在している。そういう歌が実はいーーーーーっぱい、いーーーーーーっぱいあると思うと、想像しただけで嬉しくなってしまう。それらを採譜する試みとかもあるのだろうけど、それも面白いだろうけど、ふつふつと、泡のように浮かんでは消え、たまに誰かが覚えてて、気まぐれに歌い続けられてたらと、体系的にならないうっすい網みたいのを想う、そのことの方がおもしろい。そういう歌を想像して、おかしげな曲を作りたいのですね、ある一面においては。


とにかく、そういう淡い淡いものがうようよしていられる精神の土壌だと、いいと思います。

アイラブユー

 ソーリーソーリー
ウエイトウェイト
プリーズプリーズ



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