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  • 2017.06.09 Friday
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イエスタデイワンスモア、ワンスモア

イエスタデイワンスモア


季節を巻き戻して、かれが消えた浅い春までやって来てしまいました。あたしはここからもう一度、不在とのつきあい方を立て直さねばなりません。しかしよくわからないままに深く想いを寄せ、よくわからないままに途切れてしまったがために、途方に暮れることはなはだしく、もしかしたらよくわからない理由で旅に出て、途方に暮れたかっただけなのかもしれない、とすら思い始めてもいました。


町役場に行き守衛室のドアを叩き、貸し自転車を借りました。受付票に書く自分の住所がなんだか滑稽にみえます。あたしはここで何をやってるんだろう。


自転車をめくらめっぽうに乗り回していると、すぐに山の中に突っ込んでしまいました。なだらかな坂をいくつも登り降りしていると、花をたくさんつけた梅や桃の木が濃い淡い取り混ぜた色彩で通り過ぎていきます。あたしは迷わないように、自分の来た方角を確かめながら、なおも自転車を走らせました。もはやめい君のことなど頭からすっぽり抜け落ちて、ただただ好奇心のおもむくままに、より人家の少ない方へ少ない方へと進んだのです。とは言っても、ここらへんはまだ人の手が入った浅い山で、いわゆる「里山」というものです。鬱蒼とした木々に囲まれて戻れなくなるような心配はありませんでした。起伏はあるのにどこかのっぺりした景観が広がっていて、そこに点在している家も木も低く、背中をまるくして地面にしゃがみこんでいるみたいで、どこかミニチュアめいていてかわいらしくもありました。

山の春の特徴なのでしょうか、桜と川のある駅に降りた時にはさんさんとふりそそいでいた陽射しはここではすっかり翳り、重苦しい雲が低く垂れ込めていました。だけどあたしは妙に気分がよかったのです。してやったり、と自分に対してほくそ笑んでいるような心持ちです。途方に暮れたい自分をまんまと途方に暮れさせてやった、というような。何をしに来たのか、どこにいるのか、わからなくなりたかった、というのがここに来たほんとうのところの理由であるような気がどんどんしてきて、ならばこの企みは成功したんだわ、と、あたしは不自然ににやつきながらペダルを漕ぎました。


「めい君、一体どこにいるの?」


ひとっこひとりいない辺りを見回して、わざとらしくそんなことを呟いてみる余裕まで出てきてしまいました。なんて、ばかなんでしょうね。その時のあたしは、はたから見れば、水をはんぶんだけ入れた瓶がゆらゆら揺れているみたいに、たよりなく軸のさだまらない様子だったはずなのに。


垂れ込めた雲のすきまから、いっしゅん薄日が射しました。今まさに春を迎えんとしている山が、光を受けてふくれはじめたように感じました。あたしは、光合成の始まる瞬間をみた、と思ったのです。ざわめきの気配。空気がわんわんと鳴るような、静けさの中、万物が黙ったまま賑々しい儀式を執りおこなっているような、異様な緊張感が漂っていました。


あたしは、上り坂に辟易して自転車を止め、用水路のそばの湿ったやわらかな土の上にへたりこみました。走り始めてすぐ気づいたことなのですが、この一帯では、空き地や路傍に、隙間を埋め尽くすようにびっしりとつくしが生えています。座り込んだところはそれがより顕著でした。なんだかおそろしいくらいでした。つくしというのは、改めて見ると不思議な形と色をしています。地球外生命体、精霊、墓碑、そんなものを連想させます。肌色っぽいからでしょうか、死んだ人の霊魂のようでもあります。それが密に群生しているさまは非現実的でした。つくしの間には、まるで地面から染み出したように、ちいさな草の花が咲きこぼれていました。ムラサキゴケ、ヘビイチゴ、タネツケバナ・・・視点がどんどん土に近づいていきます。溢れでてきた旺盛な草花たちの息吹があたりに充満していました。





近くでうぐいすが啼いています。冬眠から醒めたのでしょうか、カエルの声もします。水の流れる音と鳥とカエルの声の他に、人間のたてる音はひとつもせず、空気は薄紅にけぶり、そしてあたしは呆然としました。極限ののどかと孤独があまりにもしずかに同時にそこにあったからです。遠くに車道が見えて、そこを走っていく車が、別の世界のもののように思われます。ここには、あたしが普段親しんでいる文化や音楽は入ってこない。入ってこられない場所なんだわ。


めい君もこんな景色を見たのかしら。こんなふうにすわって、つくしに囲まれて…かれはここで消えたんじゃないかしら。


まったく勝手なことですが、この場所だけがその時あたしとめい君をつなぐただひとつのものだと確信したのです。いいえ、事実なんてどうでもいいんです、あたしの旅において、ここがまさに水源地だと、確かにそう思ったのですから。つくしの胞子。無意識にあたしは、つくしの胞子の色を想像していました。ぼやけた色の、でもカラフルな、ちょっともこもこしたつぶつぶ。それが空気を彩っている。ただよう無数のつくしの胞子に覆われてまぎれて、かれの輪郭はあいまいに溶け出してしまう。消える人はみんな、ここに来るものじゃないかしら。ならば、あたしも今、誰かの前から消えているのかも知れません。あたりいちめんに拡散しためい君の気配を勝手に感じて、あたしはたった一度だけ、かれの腕の中に抱きしめられたように思いました。


「終わらせて、もらいましょう。」


山を降りると、どこかでブランコが揺れて軋んでいる音がしました。淫靡なおんなさおだけ屋の声もしました。あたしは夕日を浴びながら、バス停でバスを待ちました。



イエスタデイワンスモア

 あたしは「めい君」の痕跡を辿って北へ行ったのです。


めい君の顔をちゃんと見たことはありません。かれはいつも大きなマスクをしていたから。顔もよく知らないひとに、あたしは恋をしていたのです。かれはあたしを時々「お前」と呼びました。かれの艶やかな声で呼ばれるたびに、耳から頭の芯にかけて電気がはしって、それがゆっくりつたって胸までくると、まん中の空洞に吊る下がっているちいさな鈴がちりちりと鳴るのでした。あたしは鈴の音に気付かれやしないかと胸の前でぎゅっとこぶしを握りしめながら、もっと、あたしを自分の女であるかのようにあつかって欲しい、当然みたいな顔をしてそうして欲しい、などと、愚かなことを考えていたのです。


かれの声はとくべつでした。深く、つややかで、みずみずしく、凛としていて涼やか。想像するしかない口元から発されるから、余計耳をそばだてたのかもしれません。他人を見る時、何よりも顔を見て印象を受け取るでしょう?その一部がかくされていると、知覚の触手は不安がって他のところに伸びるのね。あたしはかれをみているうちに、かれの眉の涼しさや笑い皺のできるやさしげな目元、しゃべる時にうごく白い喉なんかを、ごくごく水を飲むように自分のなかに取り込んでしまったんです。


そしていつしか、あたしはめい君の声に、雪の降り積む音や木々の葉ずれの音を聞き、短く生え揃った睫毛に虹色の朝もやを見、こげ茶色の瞳に雨のしずくを見、まっすぐな背中に梢をわたる風を感じ、袖まくりした腕に土の匂いを嗅ぎ、目元ににじむ桜色に柔らかな花びらを、短髪のうなじに草の匂いを、俊敏な身のこなしのその残像に雲母(きらら)の瞬きを、見いだすようになってしまったのです。


「好きなひとのからだから、森羅万象が見えるようになってしまった」と友達に告げると、彼女は目を丸くして驚きました。驚きながら、祝福してくれました。


しかし、めい君はいなくなってしまいました。かき消すようにあたしの前からいなくなってしまったのです。桜の蕾がまだ固い頃に。その後は、春が春とは思えませんでした。花が咲いてもかなしいだけでした。心棒が抜けて傾いてしまったみたいに、うまく歩けませんでした。かれの不在があたしの中心になってしまっていました。あたしは穴の周りを無様にまわる不出来のドーナツでした。あたしは何故あんな不確かなものを真ん中に据えてしまったんでしょう。


夢を見ました。あたしはめい君を見つめている、けれど顔のところが真っ白い穴になっていて見えない。それはいつのまにかあたしの胸の真ん中に空いた穴になっている。あたしは首を折り曲げて、それを覗こうとする。目の前に、穴の中のようすがおおきく映し出された時、あたしは小さく声を上げたと思うんです。白く見えた穴の中には、びっしりとハコベの小さい花が詰まっていたのです。生えているのではなく、誰かの手で花首だけぷちぷちと摘み取られ、ふわふわと層を成すまでに穴の中に詰められていたのです。あたしは夢の中で、ああ、この白い空白の部分を見つめるとなんだか目隠しされたような自分の目がみえなくなったような感覚に襲われていたけれど、ほんとうは穴の中にはこんな小さな白い花が敷き詰められているんだったのね、なんだか、寝心地のいい小人のベッドのような・・・と、よくわかならない納得をしました。





めい君が北の町にいると知った時、とにかく行ってみようとすぐ思いました。そこに行ってもかれに会えないことはわかっていました。けれど、かれの抜け落ちてしまったこんな町でじっとしているよりは、かれをどこかに抱きかかえている北の町の風景を、この目で確かめたい、そうすればこの中身の偏った、へしゃげたケーキの箱のようなひどい状態に、収まりをつけられるかもしれないと考えたのです。


そこで葉桜の頃、北へ向かう電車に乗りました。鈍行の終点まで乗って、乗り継いだらまた次の終点まで。そんなふうにして、長いこと窓の外を眺めながら乗っていました。あたしの町ではすっかり散って青々とした葉をつけていた桜が、北上するにつれてどんどん巻き戻っていきました。葉桜→散り始め→満開→七部咲き→五部咲き→四、三、二、一。あたしは、かれが目の前にいた日々のことを丁寧に思い返していました。もう会えないひとのことを思うというのは、どういうことだろう。不在に思いを馳せるというのは、どういうことだろう。目の前にあるものを見て何かを感じることと、どう違うのだろう。どちらも、ひどくおぼろげなことなんじゃないかしら。そしてあたしは、かれの顔だってちゃんと見たことはないのです。だけど、かれのからだが発していた、みずみずしい旋律のようなものを、あたしはかれのディティールとともにはっきり、手に取るように憶えているんです。これを一体どうすればいいのでしょう。


着いたところは、川沿いにずっと桜が植えてある、ただそれだけしかない小さな町でした。めい君がいるらしい町には、そこからさらにバスに乗ります。バスの時間まで、まだ一、二部咲きの桜を眺めることにしました。河川敷ではお祭りが開かれていて、雅楽の生演奏が聴けました。あたしはこの旅が、何か厳かな儀式であるように思えてきて、背筋をぐいと伸ばしました。


それにしても、桜の有無はあれど、あたしの町とこの町は似ています。川っぺりの田舎町。電車で30分くらいのところに、大きめの地方都市。きっとこういう町は他にもたくさんあって、似たような町と町のあいだで人が消えたり現れたりしているんだわ。


バスに乗って、さらに田舎の、なだらかな山のあいだにこびりついているような町に着きました。ここでは桜はまだ蕾でした。めい君がいなくなった頃と同じような蕾の状態でした。あたしは、水源に辿り着いたような気がしました。ここから、変なねじれが発生していて、かれは消えたのだ。


ウィンクひとつでうぉうぉううぉう

ホワイトデーライヴありがとうございました。

エーツーを16年やってきて、音楽に関してもダンスに関してもぜんぜん専門的な知識とか身についてないな、16年あったら楽器とかそうとうできるようになるんじゃないだろうか、ではわたしたちは16年のあいだに何かプロフェッショナルになったことはあるのか、などと考えていた。

それは、「ステージに立つ心構え」だ。

心構えだけは、プロです!

自分がステージ上で何かをするという時、全世界に向かってやっているか?いや、世界の全員に気に入って欲しいとかじゃなくて、全世界のうちのひとりでも何かを感じてくれたらいいんだけんども、たとえばさ、自分の狭いコミュニティ内の人にだけわかればいいみたいな、そういう限定的なのはつまらないと思います。そんなのは、お金を取って、お客さん集めてやらないで、サークル活動にすればいい。


しかしこういうバンド(バンドに限らないが)というのはかーなーりーいる。


ステージに立つというのは、自分の持てるものを全力で使って、肉体や行為を通して、日常では思い至らないような形而上の物事への手がかりをそこに現前させることではないのか。その時、会場がどこであれ、客層がどうであれ、対象はそれを超えて全世界であるべきだ。


そういう場であるからこそ、自分のやっていることについてよく考えないといけないと思う。自分がステージで何を見せられるのか、それは他とどう違うのか、ださくないか、陳腐ではないか、もしくはださくても陳腐でも可能性を感じるからやるのか、感じないからやめておくのか。


思えばエーツーは中3の部活の時間に突然始めた時から、誰もいない広場で、1万人の観客とかを想像してライヴしていた。


そんで、他にも100万個くらい同じようなバンドがいるんだろうなーとすぐ予想ができるようなのを、わざわざやる意味がわからないというバンドも何故かものすごくたくさんいて、そういうやつらは一体何がやりたくてやっているのか。たとえば「ゆず」(ごめん例がこれしかすぐ出てこなかった)みたいなバンドをやってるやつらのCD買うくらいなら、ゆずのCD買うしゆずのライヴ行くっちゅーねん。誰でも簡単に音楽作れて気軽にライヴハウス出られるような環境になったからって、プライドが低くていいってことありません。


ステージや観客を自慰の道具にする者がほんとうに大嫌いだ。そういう者に心酔する似たような感じの観客も大嫌い。安い自己陶酔や自己憐憫や似た者同士の傷舐め合いサークルなら、ほんとうに、他の誰の目にも触れない所でやってくれたまえ。



先週、音楽について書いたらちょっとだけ好評だったので、引き続き「嫌いなやつシリーズ」いってみました。


えーえー、ライヴで配った「手作りホワイトロリータ」。

写真撮ってなかったのでお客さんでいらしたMさんの写真使わせていただきます。






お菓子を作るときはいつもバターを使うのだけど、ホワイトロリータはマーガリンだろ、と思って製菓用マーガリンを使いました。砂糖をすり込んだ状態でちょっと食べてみたら、不味くてびっくりした。

マーガリン多めの配合にしたら、焼き上がりがサクサクになりすぎて運搬中に割れそうだったので、残りの生地に慌てて粉を足し、練って強度を出した。ホワイトロリータってレモンっぽい味だったよな、と思い(うちはホワイトロリータはあんまり買ってこないブルボン家だったので、味の記憶が薄い)、生地にはレモン汁を入れた。

クリームは、ホワイトチョコと豆乳でできた生クリーム、バター、レモンの皮のすりおろしを混ぜて作った。レモンは果汁入れると分離すると思って皮にしたのだが、入れたとたん凝固し始めてかなりあせった。皮も酸性なのか、やっぱ。しかしその固まりっぷりがとてもブルボンっぽいクリームになり、しめたと思いながらクッキーにまぶしました。



クッキングシートを切って包装紙にした。よりそれっぽくするために、ラインを手書きで入れました。

作ってる最中リーベにメールしたら、「がんばれブルボン工場長!」みたいな返信が来た。
味は、「ああ!これホワイトロリータだよ!たぶん」と、食べてもいないホワイトロリータの味がして満足した。本物よりおいしいという声も聞けた。生のレモン使ったのが勝因でしょうな。安いレモン風味のクリームは嫌いだけど、ちゃんとしたレモン味のお菓子は最近好きです。
そして、製菓用マーガリンを使うとサクサクになる、とわかったので、今度クッキー焼く時はバターと半々で使ってみることにする。ひとつ学習した。


結局バレンタインもホワイトデーもお菓子をあげまくるアイドル道なのだった。
いい加減、自分用に高いチョコでも買ってこようかと思う。


混雑しております

おうおう。書くことがまったくまとまらないよ。ノープラン、ノーフューチャー。

だから細切れに最近思ったことを書くよもう。すいませんね。



●今さらだが、今さらなのだが、当たり前なのだが、言わせてもらう。

「じぶんの自尊心を満足させるためとか、じぶんを慧眼に見せたいがためとかで音楽に関わってるやつ、だいだいだいだーいきらーーーーーい!!!」

んなやつに音楽なんて聴こえるわけがない。沁み込んで行くわけがない。

マガジン読者の諸兄におかれましてはそんなひといないと思いますが、こういう輩がほんとにいるんだよなあ。音楽に限りませんが、インディーズ音楽ってそういうやつが発生しやすい場なのかも。
やたらに関係者アピールしてくるやつ、「俺は評価してる」みたいな上から目線のやつ、シーンを憂いてる体を装って自慢しかしてこないやつ・・・

こんなやつは敵ですらなく、ひたすらカワイソウなお粗末君なのだが、そういうやつと接触するたびにわたしの好きな音楽にやつらのばっちい指紋がべったりくっついちゃう気がしてさ〜。シッシッ。

わたしの敵ではないけれど、音楽の敵だとおもう。いや、やっぱり、悔しいが、まだわたしの敵でもあるかな。でこピンで跳ね飛ばせるくらいに、こういうやつらの存在を自分の中で軽くしたいものです。





●先日練習の折、「わたしたちのきらいな女」についてあらためて話し合った(嫌ってばっかりじゃんね)。

それはきっといわゆる「病んデレ」というやつ。違うかも。


とにかく、病んでる自分が大好きで、「自分キャラ設定」がややこしくて、一人称とかも変で、性的なことを赤裸々に、漢字いっぱい使って書いたりする女だよ!!あーこれ、書いちゃうと嫌われそうだから自粛するわ。

こういうことを書くと、「同類嫌悪でしょ」みたいにしたり顔で言うやつも大嫌い。お前わたしの何を見てんだよ。

自己否定や自己愛やコンプレックスの泥沼から、ゾンビのように、おもしろい顔しながら這い上がってきた女の子が好きなんです。「おもしろい顔しながら」だからね!!!

ずーっともやもやしてたこの気持ちに、スパーンとある名称がついたのですが、説明がめんどくさいので秘密です。





●アコさんがツイッターで書いてた「表現の幼児退行」のようなことについても話し合った。

「お母さん大好き」みたいな曲を臆面もなく歌う、みたいな。

もうね、そういうことは、紙に書いて卒業式の筒に入れてオープニングで見せたらいいよ。そして歌わなければいいよ。エーツーはそうするよ。

表現がメッセージたりうるということと、表現がメッセージに隷属しているということはまったく違う。詞の(詩の)言語は、もっと、たくさんの異なる階層にアクセスするものであって、というか、しなければならないものなのだ。そうでなければ、会話やメールや説明文とは異なる、表現という土俵で発する意義がないじゃないか。





●もし男の子だったら「手ノ内嫁蔵」みたいなバンドやりたかった、とここんとこ毎日思っている。4人のやんちゃくれたち。みんないい顔してる。

そして、肉体と言語と音楽と歴史について考えている。

手ノ内嫁蔵の曲は、肉体と言語が緊密に結びついていると思う。関西にはその傾向が強いのかもしれない。イントネーションがメロディとリズムに直結している。

歴史については考え中。肉体って、歴史なんだな、と今のところおもっている。





●そして、手ノ内嫁蔵メンバーで最も大好きな和田シンジさんについてよく考える。
野性の中にしか、先鋭ってのはなくて、そんでもってそれが音楽ってかたちで結晶するのって、都市部でしかありえないのかもな、と。


ところで先週30歳になりました。あんまり感慨はありません。


写真は高崎行った時のです。アーケードの脇にすぐこんなボロけた風景が展開されていた。









う〜〜ん。来週はとっておきのアレ出すかな・・・

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