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- 2017.06.09 Friday
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こないだリーベと焼肉食べながら、マリスミゼルについて熱く語り合った。
なので今週こそは満を持してKAMIの話を書こうと思った。
しかし、だ。
私事で申し訳ないのだが、ストレスが溜まっているのである。
職場が荒れているのだ。
わたしはなんというか、AとBとCという人間とか、部署があったとしたら、
それらの間の連絡をスムーズにして、作業を円滑にいかせるような役割に、
いつの間にかなってしまっている。
弁というか、ニュアンス先輩が言ってくれたのだけど、橋、というか、ね。
AとBとCが同じ目標(それって仕事の無事終了、のはず)を持ち、協力し合っている時には、
「弁」は楽ちんだ。連絡事項をきちんと伝えればいいだけだから。
しかしそうでなくなった時、すげえ疲れるしすさむのよ。
ABCよ、自分大事MANブラザーズバンドはやめてくれ。
自分の命をかけがえのないものにするために他人の命を無きものにすることはいけない、
それが正当化されるほど重い命なんかない、
ってどっかで読んで、まあわたし、むかつくやつのことよく「死ね」とか思いますけど、
むかついて殺すほど偉くないからな、やっぱ。
「命」っつーといきなり壮大だが、まあとにかく、自分を尊重しすぎてひとのこと叩きのめすのは、
小物のしるしだし周りの人間がフォローに回らなきゃいけなくて迷惑だから、
会社でそーゆーのヤメロ、ってことだよ。
まあ自分もそうならないように、という意味も込めて書いとく。
さてこの精神状態でKAMIのことを書くと、単なる毒吐きになると思われる。
わたしはもっとKAMIのことはふっくらした心持ちで書きたい。
なんちゅーか、デリケートなことだからね。
そしてマリスミゼル続きでちょっと胃もたれ気味の方もおられるだろうので、
ちょっと、違うものを挟みます。
こうしてKAMIネタをキープし続けて、ネタ切れを少しでも延ばそうというアレでもあります。
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ある年の2月、とてもさむい日。
わたしは蝋梅の花がみたくて、電車に乗った。
不安になるほど遠くまで来た。それは、旅行に行く時のわくわくした遠出の感覚ではなかった。
近いはずなのに、遠い。知らない風景。駅を出ると全く人がいない。
都内とは思えないだだっぴろい公園に足を踏み入れた。
そこに蝋梅が植わっているという情報を得たからだ。
空はどんよりと白い。
公園は、モノクロームかと思うほど彩度が低い。
ちらちらと雪が降り始めていて、それは水分とは思えない、さらさらとかわいた小さな粒だった。
服についたその粒をまじまじと見ると、とてもきれいに結晶のかたちになっている。
雪には年に何度もお目にかかれないし、いつも状態がちがうので、
こんなふうにはっきりと結晶を確かめられるのはめずらしい。
わたしは服につく結晶のかたちを飽かずにいくつもいくつも見た。
それにしても誰もいない。
あたたかいお茶を買い、ポケットの中で握りしめる。
色彩に乏しく見える公園にも、よく見ると水仙や福寿草が咲いていて、
少し進むと紅梅も満開だった。雪の結晶を花びらにちりばめて、とびきりの風情だ。
蝋梅の木は入り口近くに2本ほど植わっていて、
透きとおった薄黄色の花をつけている。
白い息を吐きながら、顔を近づける。
冬の短い陽射しをすこしずつすこしずつ集めてやっとできたような、
幽かなたたずまいが好きだ。
魅惑的ながら清潔感のある香りがただよい、
静かに陶然とする。
しかし2本では物足りない。もっと、たくさん植わっているはずだ。
わたしは園内をさらに歩いた。
枯れたユキヤナギの枝のところに、
白と黒のツートンカラーの小さい鳥がたくさんいて、
しきりに鳴き交わしながら、ついついと枝の間を遊んでいる。
かなり近寄っても逃げない。
じっと見ていると、はっきりした白と黒、不思議なリズムを持った鳴き声のタイミング、
軽快な枝渡りの動作があいまって、何かおかしな気分になってきた。
その時少し、感覚がズレたようにおもった。
ふとしたはずみでほんのちょっとだけ横にズレた、違う世界にはみ出してしまったような。
その感覚は、すれ違う人がまったくいないことで増幅された。
雪、寒さ、無人、花、鳥。
これらが絶妙に混ざり合って、影響しあって、妙に夢っぽい。
歩き続けるうち、わたしはある看板に気づいた。
「セツブンソウ」
と書いてあり、赤い矢印が添えてある。
セツブンソウというのは、植物の名前だろう。
聞いたことがない。
しかし、わざわざ看板を立てて方向を示すくらいだから、
きっと何かしらめざましいところのある植物なんだろうな。
わたしは、看板の示すとおりの方向に歩くことにした。
しかし、歩けども歩けども、次の看板が出てくるばかりで、
「セツブンソウ」そのものは出現しない。
なんとなく、内田百けんの書く小説みたいだと思った。
あの鳥がスイッチになって、不条理な物語の世界に入ってしまったのかな。
雪が肩に落ちる、さら、さら、という音が聴こえるように思うほど神経は研ぎ澄まされ、
しかし百けんの小説や夢の中みたいな不安感も大いにあって、
にわかにこの彷徨は充実したものになった。
その途中でお目当てであったはずの蝋梅の木もみつけたが、
樹齢が低いらしく、枝ぶりは貧弱で、花もぽつぽつとしかついていなかった。
端から派手派手しいものではないので、ぽつぽつだととても淋しいものになってしまう。
それより「セツブンソウ」に辿りつきたかった。
というより、執拗に「セツブンソウ」の案内をする看板に翻弄されているのが楽しかったのだろう。
しかしついに、そんな倒錯した悦びは終わった。
土を盛り上げて岩で囲った一角に、矢印のない看板が出現したのだ。
それすなわち、「ここにセツブンソウがあるよ」というしるしであった。
わたしは近づいた。冒険の終わりに少しだけ落胆し、少しだけほっとしながら。
地面に何か白くてちらちらしたものがこびりついている。
雪がもうこんなに積もったのか?
よく見ようとしゃがんだ時、あっと息を飲んだ。
花だ。おそろしく地味でちいさい花が、ちまちまと咲いている。全草5センチもないのではないか。
これか。これが、冒険でいうと竜の玉とか宝石箱に当たる、今日のお宝「セツブンソウ」なのか。
がっくりと肩が落ちた。
地味だな、おまえ。
よく歩かせたな、おまえ。わたしを。
しかし、この奇妙なズレた世界において、
おかしな彷徨の末たどり着いたところに咲いている花としては最適に違いなかった。
花はことごとくうつむいて咲いていたから、わたしは這いつくばって、
下から顔を覗き込むようにしてセツブンソウを見た。
白い花びらは、しべの青紫を映してほんのり青ざめてみえ、幻想的だ。
ちいさいことによってますます秘密めいている。
それで、そこそこ納得したような気分になり、帰路に着いた。
家のそばで、道端のフェンスに、雪が結晶のかたちのままふわふわと積もっているのを発見した。
そのうすいうすい繊細な一片一片が、蛍光灯で照らされてきらきら光っている様子は、
あの百けん的な感触のつづきのようだった。
ふうっと息をふきかけると、結晶たちは光りながら散った。
セツブンソウのひそひそした咲き方が頭に浮かんだ。
あのぽっかりしたおかしなてざわりの時間を、きっとなんとなく何度も思い出すだろう。
しかしセツブンソウって、あんなに看板追いかけて歩きに歩いて見るようなものなのだろうか?
いや、わたしは見れてよかったけど、他の人はどうなの?
そう思っていたら、最近読んだ梨木香歩の『家守綺譚』という小説に出てきた。
植物の名前を冠したみじかい章によって構成されているのだが、
その中に「セツブンソウ」があったのだ!
筋は省略するが、セツブンソウについてこんなふうに書かれている。
「床の間に、見慣れぬ純白の繊細な造りの花が落ちていた。下界にまみれぬ、清澄な気配を辺りに放っている。ああ、これがセツブンソウか、と屈んで拾い上げた。
成程これでは深山の奥にしか棲息できまい、と思った。」
やっぱり、セツブンソウに遭遇するには歩かねばならんのだ。
敢えて画像は載せませんので、見たい!と思った方は、
百けん式に迷い込むか、画像検索をしてくださいってすごい落差だけど。
ああ、可憐な花のことを書いたらストレスがやわらいだ。
来週はKAMIや池田貴族のことが書けそうだ。
どーん。
これ、今ニヒル牛2で開催中の「漫画・ミニコミ・アニメ展」に出品するための、
エーツー本『あるばかものたちの記録』の、
限定特典の、
熱海で妄想したギャルバンについての漫画
なんだけど、
描いたはいいけど納品できてない、
というブツ
なんです。
つまりこれの内容を知ってるのは世界でいまのとこオンリーミー。
バカか!とっとと納品しやがれ。ピストルズの勢いで「納品しやがれ」。
しかし本体の『ばかものたち〜』の製本がめちゃくちゃめんどくせーんだよねー。
やるけど。土日には納品されているはず。
つうかこれだけ100円とかで売ってもよかったくらい時間かかった。
猿が左手で描いたような漫画なのに・・・
漫画大変!漫画を馬鹿にすんな!素人が描いてみるとよくわかるぞ!
聞いてんのか、石原!!
そして、当「ニヒル牛マガジン」をつまみ読みできるような本を、
あるさんが作ってくれました!
わたしの相方リーベの工作と近い匂いがする、
ワイルドな出来なのでニヒル牛2にいらした時は、お客様、ぜひ手にとってご覧になって。
さあ、「けだかさ」についてだ。
「けだかさ」。いやひらがな表記にあんまり意味はないのですが。「気高さ」。
この言葉をとつぜん思い出したのは、年末、ラジオを聴きながら作品をつくっているときだった。
受験を控えた高校生のための特番を放送していた。
苦手科目を克服する方法だとか、効果的な気分転換の方法だとかについて、
東大生や京大生がアドバイスする。
この番組の中で、「高校生が選んだ応援ソングベスト10」みたいなコーナーがあった。
「応援ソング」。
って、悪口じゃなかったのか。
「こんなの応援ソングじゃん」「あーあの応援ソングね」みたいな。
わたしが性格悪いだけなのか。
とにかく、「応援ソングベスト10」と、朗らかにラジオは言ったのだ。
そして紹介されたソングたちの応援っぷり!
ひとつも知ってるソングなかったけど、薄気味悪くてたまらなかったわ。
「応援ソング」と銘打って歌を作っているのか?
で、
「新曲はあ、応援ソングです☆」
ってミュージックステーションで言うのかよ!!そこに何があるんだ?そこに音楽はあるのか?
タモリに笑われるぞ。
そしてね、
「おい高校生!!『こんな応援ソングとか言われちゃう歌に励まされてたまるか』という、
けだかさはないのかよ!!!」
と、わたしはラジオの前で憤ったのだ。
そうか。J-POPがどんどんつまらんものになってる気がするのは、
リスナーに「気高さ」がなくなってるからか。
わたしはテレビを観ないから、どんな歌が流行っているのか正確には知らない。
しかし、たまに街で耳にするJ-POPは、驚くほどつまらない。
「応援ソング」、「切ない系ラヴソング」、「桜ソング」とかさ、
まず用途があって、そのオーダーに従って作られているような感じなのだ。
それを、リスナーは用途に応じて使用するといった感じなのだ。
そんな、予定調和の関係が、音楽体験だというのか。
つまらん。じつにつまらん。
あ、もういっこ書かせていただく。
本屋かどっかでかかっててびっくりしたんだけど、
「いつのどこそこで両親が出会って、苦労しながら家を買って、俺が生まれた。
幼稚園、小学校、中学校、そんでグレて」
みたいな歌!
なんじゃそら。北関東のヤンキーの歌か!?
そんなやつの生い立ちを誰が音楽にのせて聴きたいか!?誰に共感されたいんだ?
作文でいいじゃん。卒業文集に書いとけよ。
「気高さ」ゼロ地点をみたね。
リスナーよ、こんな曲の発生を許すんじゃない。
せめてこの曲を許さない程度には気高さを持とうぜ。
そんな中!!
わたしはMALICE MIZERに再会した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/MALICE_MIZER
マリスミゼルは、高校生の時にリーベが教えてくれたバンドだ。
『あるばかものたちの記録』にも書いたのだが、
当時最盛期だったビジュアル系バンドブームの中で、
他のバンドが全くお話にならないほど面白かったのがマリスミゼルだった。
リーベもわたしもビジュアル系バンドなど大嫌いだったのだが、
(リーベは「アンチビジュアル委員会」までやっていた。ひとりで)
「このバンドだけは・・・もう、負けましたと言わざるを得ない」と、
白旗を揚げてマリスにハマった。
何が他と違ったのか。
「その気」度だ。
ビジュアル系バンドというのは、バンドの中でも「その気」度が高いジャンルだろう。
「ナルシシズム」と言ってもいいのかもしれないのだが、
マリスの「その気」と他ビジュアルの「その気」は少し質が違う気がするのだ。
他ビジュアルの「その気」が、「ナルシシズム」であり、その域を出ないものだとすれば、
マリスの「その気」は、「ナルシシズム」を超えて、観る者に「参りました」と言わせ、
その「その気」世界に飲み込んでしまうようなものだ。
だってコレですよ!