スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
- 2017.06.09 Friday
- -
- -
- -
- -
- -
- by スポンサードリンク
先日のライヴにお越しくださった方、ありがとうございました!
出番押尾氏、わー押し押しだよ、だったり、
ステージになんか液体がこぼれてたり、
トイレにゲロの痕跡があったり、
いかにも高円寺のむちゃくちゃなまつりって感じでしたが、
たまにはそういうむちゃくちゃなまつりにもまれた方がいい気もします、わたしはね。
円盤たぐちさんの「お前らの思い通りに(ライヴを)やれると思うなよ、って、いっつも思ってる」という言葉を思い出します。
口に出して言いたい美しい日本語ですね。
まつりがどんなにむちゃくちゃでも、エーツーは小道具を買い揃え、
公園で練習をし、衣装を着て全力でライヴをするのみ。
お客さんの反応がアツかったらさらに最高に楽しいです。
こないだはまつりだったこともあり、雄叫びを上げて楽しんでくださったので、
テンション高いライヴができました。
地獄からやってきたサタン・クロースとして(クロースってなんだろう。クロス?十字架?)、
ささやかなプレゼントを作りました。
ジンジャークッキーのしゃれこうべオーナメント。
目はレーズン、鼻の穴は黒ゴマでつけました。
なんか普通に愛らしくなっちゃった・・・
でもこれがツリーにたくさん下がってたら悪趣味でいいなあ、首ツリーだなあ、と。
へい。では。ドリームの話をしようかいね。
何からお話ししたらよいかしら。おもいつくままにいってみますね。
もう数年前になる。ある時唐突にリーべが、「グレイ好きって言える人って何なの」と
言い始めた。大学生の時だ。
大学生になった途端に「合コン」「飲み会」と当たり前のようにサラッと口にできるようになってしまうキャンパスライフ満喫大学生たちに馴染めず、メガネをコンタクトに替えて澄ましてデビューできる臆面のなさもなく(いや、コンタクトにしようと思ったことは一度もないです。わかりやすい例えです)、当時誰もがぶら下げていたスタバのバッグを最高に恥ずかしいと思っていた、その頃のエーツーの、全世界に投げかけた憤り混じりの疑問であった。
「グレイ好きって言える人って何なの」
グレイというのはその頃かもう少し前に売れていたあのバンドだ。
前々回の森ガールの話にも通じるが、エーツーは「サラッとみんなと同じにする、
ペロッとわかりやすい系統に同化する、またそれを公にする」ということが非常に非常に
恥ずかしい。特に、「それを公にする」ということが。
つまり、今グレイが流行っているとして、自分がグレイを好きだとして、
でもオレンジレンジが出てくればオレンジレンジを好きになるとして、
「好きな音楽はグレイです」と堂々と宣言できるか。
また、自分はグレイを永遠に心の底から好きだ、愛している、売れてる売れてないは関係ない、といった場合、前者のようなオレンジレンジ予備軍がうようよいる状況で、「わたしはグレイが好き」と発表できるか。
どちらもイヤだよ。ひた隠しにする。
後者の場合はグレイが売れなくなってから重々しく発表するね。それかもうグレイ好きの第一人者ぐらいになる!
その、サラッとペロッと言っちゃえる感じはなんなのさ。
そんなしちめんどくせえ性根から、「あなたにスキンケア」、「あんたグレイ好きか」という曲が生まれた。
そして変わり身の早い、サラッとうまくやれるやつら(仮想敵)のことを「グレイ好きカー」と呼ぶようになった。
あれから数年。エーツーの考えの基部はほぼ変わっちゃいないが、「飲み会」は普通にやれるようになり、ためらいなく髪色を変えられるようになり(わたしは黒いけど、潜在的にはできる)、ショートパンツもレギンスも(スパッツって呼ぶけど)登山ブランドもどんと来いになった。
そしてそのように少しへらへらできるようになったところで、ある時、
「グレイ好きは隠すもの、だけどグレイ好きカーは確実にいるもの。でも、そういえばたとえばドリカムって、どういう人が好きなんだろう。グレイのような愛憎ドラマは生まれうるのか?」と、うっすら半開きの目でソフトに思ったのであります。
この漠然とした問いに、ズパッと回答をくれたのが能町みね子さんのこのweb連載だ。
モテない系とドリカム層
能町さん曰く、世の若い女性を大まかに分類すると、「モテ系・モテない系・圏外」になると。
「モテ系」はギャルとか、江古田ちゃんのいう「猛禽」とかだろう。
かわいく、華やかで、男心をたくみにキャッチする。エビちゃんOLみたいの?
「モテない系」は、自意識過剰・あまのじゃく・個性的と言われやすい・趣味に没頭。
能町さんは自らをここにカテゴライズしています。
エーツーもここだな。サブカル気取りとかもここでしょう。
何しろモテない系のいちモデルとして、「前髪ぱっつん・メガネ・ジャージ」が挙がっている。
それわたしじゃん!
「圏外」は、服とか身だしなみに一切気を遣わないおなごだろう。東村アキコの『海月姫』の主人公・月海ちゃんみたいな?でもなかなかいないよねそんな人最近。
「腐女子」とかっていう人たちだって、自分なりの服のこだわりがある人が多そうだ。
まあ、「系」ってのがそもそもどうもイヤ、なんだけど、
それも自意識の強い「モテない系」の属性でもあると思うのでこのまま話を進めます。
能町さんは、これらの間に、「ドリカム層」なるものが存在すると指摘している。
モテ系・モテない系・圏外というのが、かなりはっきりした特徴を示すのに比べて、
「ドリカム層」は「層」だ。つまり、これらのおなごのあいだあいだに、モヤッと存在している、あいまいな、いわゆる「ふつうの女の子」みたいなもの。
引用します。
「ここで話題とする私の思う「ふつうの女子」とは、「なんとなくドリカムが好きそうな女子」である!「なんとなく好き」というところもポイントとなってきます。カラオケでたまに歌うが有名な曲しか歌えない、CDも何枚か持っているが全部そろえているほどではない、ライブも足しげく通うわけではない(あるいはそもそも行ったことがない)。だけど、好きな音楽は?と聞かれると、ドリカムかな、と答える。このくらいの女子です。」
そーか!なんかモヤッといっぱいいるおなごは「ドリカム層」か!
「層」の需要があるから売れてんのか、ドリカムは。
まあ、ドリカムじゃなくてもいいんだ、ああいうものなら。
つまり、エーツーの認識で言うと、
「グレイ好きカー」はモテ系寄り、エーツーはモテない系、そしてグレイ好きカーほどエーツーに悪口を言わせない、なんかアンサンブルニットに黒いスカートと黒い膝丈ストッキングはいてるようなイメージの、派手でも超・地味でも不潔でもない者たちがドリカム層だ。
そのいわゆるふつうさを、「なんとなくドリカム」と持ってきたところが、
なんと鋭くておもしろいのだろう。
ドリカム層はさぞかしリラックマとか好きなんだろうなあ。
わたしは能町さんの連載をみつけたとき興奮してリーベにも読むように勧めた。
そんなわけで、「ドリカムはなんかおもしろいもの」という認識がエーツーの中に芽生えたわけです。
話は変わる。
リーベはパン屋です。チェーン展開している某パン屋に勤めている。
そしてゆくゆくは自分の店を持ちたいと考えている。
わたしはそれに全面的に協力する。
もう何年も、その時々の「どんなパン屋にするかプラン」を話し続けている。
ある時、わたしが「焼き上がりまで何マイル?」という曲を作った。
曲名がまずできて、「何マイル?」というところから、
「まだまだ遠いよなーパン屋への道・・・」とかなんとか思ったのだろう、
「最果てベーカリー」というフレーズが出てきた。
最果てベーカリー。かなしいだろう。不穏だろう。詩的だろう。
わたしたちはこれを気に入り、将来開く店の名はもう「最果てベーカリー」だね、
という話をした。ロゴとかも考えたりした。
しかし、そんな最果てベーカリーが、なんだか北関東に開店する気配が濃厚になってきた。
北関東にある「最果てベーカリー」・・・
「最果てって、キタカンだったのかー」
「キタカンで『最果てベーカリー』って名前のパン屋やるって、すごい勘違いされそう」
「うわ!ほんとだっ!勘違いとの闘いだ!ちょっとキツいなー」
「キタカンがすごく好きみたいだし、夢見がちっぽい。なんか、もう恥ずかしいね、これ」
そういったわけで、もっとキタカンで定着しそうな、恥ずかしくない店名を考えることにした。
「もう、中村屋がいい!(リーベの苗字は中村)」
「それだめでしょう。でも中村はいいよ、パンと中村が入った名前がいいよ」
「中村パン屋・・・」
「おおお!老舗っぽい!てか地元密着、昔ながらのパン屋っぽい!」
「もう老舗!開店したら即老舗!そんな感じいいねえ」
「ベーカリー・・・ナカムラ・・・ベーカリーナカムラ!!カタカナで!いくね?」
「いいかも!わかりやすい、かわいい、老舗っぽい!」
「ベーカリーナカムラ」案が出てしばらく経った頃、リーベがけったいなことを言い始めた。
「なんかさー、もうさー、カッチカチのコンセプトとかなく、てかそれを前面に出さないで、
『気づいたらパン屋になってました』とか、『親がパン屋でなんとなく引き継ぎました』とか、
『何にも考えてません』って顔してやりたいんだよねー」
うわ!それもう病んでる!
「何にも考えてません」って顔したパン屋!
その実は、「何にも考えてません」って顔がしたくて、必死でしている、
必死で過剰なおしゃれさやかわいさやこだわりを隠している、パン屋!
わかる。ある程度まではわかる。
パン屋は、おいしそうで入りやすいのがいちばん。
あまりに硬質なこだわりは、入りづらさにつながってしまう。
だけどねえ、「気づいたらなんかパン屋になってた感」の演出は、いきすぎでしょう。
雑誌の取材とか受けたら「特に何も考えてません」って答えたいとまで言ってたからな。
しかし、わたしも勉強したい!と借りた、パン屋開業の本を読んで、思ったね。
「店名に自分の思いとか、込めたくねえ!」
フランス語で「命」とかさあ、元気の出るような言葉とかさあ、
ナントカ語で「愛情」みたいのとか。
は、は、は、はずかしいよう!
「ベーカリーナカムラ」だな、やっぱ。この何も込めない美しさ。
ところが最近この「パン屋問答」が新たな展開を見せた。
「エーツー宇宙」に向けて、人工衛星をかたどったアイドルグッズを一緒に作っていた時、
森ガールの話になり、「知られたくない、言いたくない」感じ、
つまり「グレイ好きって言える人って何なの」談議になった。
そこで、わたしはパン屋の店名の話をした。
「あんたの言ってたことがよくわかった」と。
そうしたら、リーベが言ったのだ。
「でもさー、最近思ったんだけど、もっと普通の会社に勤めて、
退職するまで地道に月給もらう道もあったわけじゃん?
だけどさー、こうしてパン屋に勤めて、店を開こうとしてるのは、
やっぱ『夢』なんだ、わたしは『夢』を選んだんだな、って。
君も倉庫に入りたくて入ったわけじゃないでしょ、『夢』を選んだわけでしょ」
う、う、う、うん。まあ、なんちゅーか、そういうことになりますわな。
エーツーやれなくなったらやだなあ、と思ってこうしてるわけだからねえ。
そこでわたし。
「え、じゃあ、あれかい?フランス語で『夢』、みたいな店名にすんの?」
そしてリーベの爆弾発言。
「・・・ドリームズ、カム、トゥルー!?!?!?!?」
ドリームズ、カム、トゥルー????
という名の、パン屋?
ひーっ!ひーっ!死んでしまう!
笑い過ぎて死んでしまう!!
「ドリームズカムトゥルーという名のパン屋」!!
キタカンで。
ヤンキーのあんちゃんとかが、
「ドリカム行くべ」
「ドリカムであんぱん買うべ」
「ドリカムの焼きそばパン、マジ神だし」
って言うんじゃ!!
高校の購買部とかにも出店して、
女子高生がお弁当忘れたら、「だいじ、だいじ(←大丈夫という方言)、ドリカムのパンあっから〜」って言われるんじゃ!!
倉庫の作業服のおっさんとかトラックの運ちゃんが、
「俺いまドリカムにいるんだけどなんか買ってく?」って電話するんじゃ!!
もう、パンの袋に「ドリカム」ってプリントするしかねえ!!
はあはあはあ。
肋骨がミシミシするくらい笑ってしまった。
ドリカム編成とかドリカム層の前に、
「ドリームズカムトゥルー」という言葉自体の破壊力に気づくべきだった。
ドリームズカムトゥルーという名のパン屋、
常連に「ドリカム」と呼ばれるパン屋、
「夢は現実になる」というメッセージの込められたパン屋、
わたしとあなたの夢のパン屋。
すごい!!
「ドリームズカムトゥルー」という店名はすごい。
たとえば「ニヒル牛」と書いて「ドリームズカムトゥルー」と読んでみよう。
わー!いたたまれない!ものつくり大学さまよい学部、手探り学部、手わすら学部が大集合。
たとえば「無力無善寺」と書いて「ドリームズカムトゥルー」と読んでみよう。
ぐぎゃー!すごいダメな戯言!お前ら(って誰)全員明日ウンコ踏むよ。
たとえば「円盤」と書いて「ドリームズカムトゥルー」と読んでみよう。
ひえー!く、苦しい!もう土下座するから許してたぐちさん。
インディーズのミュージシャンのいろんなところが痛いよう。
(すみません、店に対しての悪気はないです)
「ドリームズカムトゥルー」は、もはや万能のオチなんじゃないかと思えてきた。
それをバンド名に冠したドリカム、恐るべし!!
いちばん流行ってたのが小学生の頃だったから、
「ドリームカムズトゥルー」なのかどっちなのか覚えるのにせいいっぱいで、
「夢は実現する」っていう意味を、apple=「りんご」くらいにしか捉えてなかった。
吟味すればするほどすごいバンド名だ。
いやー、すげえわ、ドリカム。「ドリカム」ってすっかり略されてるとこもすげえわ。
で、ドリームズカムトゥルーってつけちゃった店は、日本のどこかにあるのかね?
あるなら這ってでも行く。
(関係ないけど着せ替え人形の浴衣がよくできたので自慢です。あーかわいい。)
ドリカムの話をして「よいお年を」にしたかったけど、もう1週あるのか。
年内にやり残したこととして、書きかけで放置してある「リバーサイドミステリー」を
完結させられたらいいな、と思います。
それでは読者の皆さん、ホルモン鉄道のライヴでお会いしましょう!
(なんかやれと言われたので何か仕込んでいくつもりです、よろしくお願いします)
わたしの住んでいるところは、利根川まで自転車3分のところだ。
毎朝自転車で橋を渡って川の向こうの駅に行き、駅から送迎バスで会社に行く。
橋の名はそのものズバリ利根川橋。
利根川橋は、「古河(わたしが住んでいる市)」方面から「栗橋」方面に行く車が通るのと、
栗橋→古河のと分かれていて、古河→栗橋の橋が老朽化したということで、
少し前に新しいのが架かった。
なので今は、2本の橋と、そのあいだに閉鎖された古い橋が挟まって架かっている。
新しい橋はつまり、古い橋から少しずれた場所に架けられたので、この事業を完成させるには、橋を渡り終えて栗橋の街に向かう道路もずらさなければならないらしい。
橋を降りたところには神社があって、ここには、昔伐採されそうになった近隣の大木が
集められているのだとどこかで聞いた。
確かに、とても立派なソメイヨシノ、イチョウ、ケヤキの大木が植わっている。
夜にこの神社のそばを通ると、木々が昼間とは違う、得体の知れない生命体のように感じられて、なんだかザワザワした心持ちになる。
昔は木を寄せ植えるまでもなく、ここは森だったのだろうな。
イチョウは元からあったのかもしれない。
道をはさんだ土手のふもとに、神社の敷地外だが大きなイチョウがある。
昔はひとつづきだったのかもしれない。
日本人の古い信仰(国家神道ではない、もっともっと原始的な、神道の源泉みたいな信仰)
では、森そのものが神であり聖なる場所だったそうだ。
神社を建てたから境内の森が守られてきたのではなく、
森がまずそこにあり、その深い神秘(というといきなり陳腐だな。「秘密儀」と言いたいのだがおわかりいただけるだろうか)を感じることこそが「信仰」だった。
だから今のような社殿はなく、また必要なかったという。
神たる森があり、その中の空き地でマツリをおこなう。
空き地にマツリのためのヤシロ(仮の小屋)を建てたのが、神社のはじまりなのだそうだ。
「森」の聖性と、単独の「巨木」の聖性は少し違うものかもしれないが、
その下に佇んだ時の感覚には共通のものがある。
大きな、不思議な生命、それとひとつづきの世界に畳み込まれていくこころよさ。
樹齢何百年とか何千年という巨木が「御神木」として祭られるのも、
「森の聖性」から来ているものだろう。
体系化された、かたちある神が木に宿るのではなく、まず木そのものが神なのであり、
その聖性に具体性を持たせるために木の精や神に名前がつけられたり、
木と木の精・神にまつわる伝承が生まれたりしたのだ。
わたし自身ははっきりした信仰を持っているわけではないけれど、
巨木に不思議な感銘を受ける心性はつづいて流れているものなんだと感じる。
だから、伐採されそうになった木がそれを免れて神社という場所に植え替えられたこと、
そして、今回その神社にかからないように道を作ることになったことを知り、
あれらの巨木が伐られずに済むことがなんだかうれしかった。
そして、巨木への畏怖というものが、まだまだ普遍性を持っているのだと感じられたことも。
余談だが、ゴシック大聖堂も森から生まれた建築なんだそうだ。
フランス北部で、自然を崇拝する土着の信仰をキリスト教が絡め取っていく過程において、
森の中にいるような感覚を与える聖堂ができたのだと。
太く高くそびえ立つ柱、こんもりと繁った葉のように変化に富んだ天井のアーチ、
枝のように複雑に分かれている梁(フライング・バットレス)、
木漏れ日のような光をもたらすバラ窓。
森は、あかるい光合成ばかりが行われている場所ではない。
光に満ち満ちているわけではない。むしろ鬱蒼と、ほの暗い。
生まれるものがあれば死んでいくものがあり、喰ったり喰われたりがあり、
排泄があり腐敗があり分解がある。
それらの現象は、直接的にまた間接的に影響し合っている。
部分が全体に波及し、全体が部分に影響し、絶えず変化しながら均衡を保っている。
そういう森の世界では神→人間、神→世界という単純な構造は受け入れられ難い。
ゴシック大聖堂にガーゴイルがついているのは、光と闇が一体になった森の宗教の名残だ。
…って、こんな大風呂敷広げる気は全然なかったんだけど。
森ガールとかいって森がもてはやされているが、
そのことでこういう森のすごさってやつに思いを馳せる人が増えるんなら、
いいよな森ガールも。
って思ってたまさにその時、相方リーベから
「テレビブロスに、エーツーが言ってるみたいな言いっぷりの森ガールの悪口が載ってるからみて」というメールが。
言われるがままにブロスを立ち読んだところ、大変なことが判明したね。
たぶん森ガール、森に行ってなどいない。
森ガールは「モテ」と「自己顕示」と「自己満足」のハイブリッドな着地点だったのか!!
ぎー!
まだ見ぬ森ガールに告ぐ。
わたしの相方はなぁ、チェコ雑貨好きだよ、お前らよりずっとなあ!
クルテク大好きだよ!!
山登りファッションも好きだよ、パタゴニアとか着てるよ、カラータイツに登山靴下はいてたよ、
でもなあ、
やつは「わたしは宇宙開発ガール」って言ってんですよお!
いねえよ、そんなの、おめえしか!!宇宙開発ガール、モテねえし。
そしてわたしは思うんだけど、
「なぜ自らわかりやすい型にはまれるのか」
たとえばモケモケと麻レースとものすごいレイヤードとツイードのくつが好きだとして、
「これじゃ森ガールじゃん恥ずかしい!
チェコ雑貨とクウネルが好きなこととか誰にも知られたくない」
って思わないの!?
それを「モテるため」と割り切ってるならまだしも、
ほんとうに好きだった場合、ぜったいひとには知られたくないね。
だから「高円寺に住んでるんでしょ」と言われたら必要以上の力をこめて
「北関東から通っています!」と叫ばねばならないし、
「不思議ちゃんだよね」とか「個性的だよね」と言われたら、
腹の中で「お前ごときには想像つかない程度には不思議じゃわい」
「おめえの服がださくてつまんねんだよボケ」と毒づかねばならない。
そしてたいていの人は、どピンクの網タイツもはけばパジャマでコンビニに行ったりもし、
チャゲアスもしょこたんも人間椅子もシャッグスも一緒くたに愛し、
ある日は加工肉をバターと小麦粉と牛乳で丁寧にシチューにし、
ある日はそのまま切りもせずがぶがぶ齧ったりする、
雑食で雑木林で雑巾な、「雑」ガールなはずだ。
(ちなみに昨日のわたしはシチューで、今日のわたしは丸齧りだ。)
おい森ガール!
おまえの生活は「スローライフ」という言葉をおまえの辞書から消し去り、忘れ去ってからしか
はじまらないとおもえ。
みたこともたべたこともない森ガールに説教してしもうた。エア説教。
エア宣戦布告。
・・・ぜんぜん本題に入れにゃい。
今週の本題は、神社の裏側に広がる、「立ち退き後の遺跡」をみてみよう、です。
神社はそのまま残るらしいけれど、その傍に住んでいる人たちは立ち退きを迫られたらしく、
何戸も家がなくなった。
もっとも、昔から栗橋に住んでいるじいちゃんの話だと、
「あそこんちは立ち退き料もらってうんといい家建てたらしい。ラッキーだよ」ということもあり、ダムに沈む村みたいな涙にくれたもんでもないようだ。
でも、立ち退いた家の跡地は、小高い道の上から見ると「間取り図」そのままの、
輪郭だけみたいになっていて、少しかわいく、それからかなりさみしい。
人の生活の痕跡が感じられ、そのことが人の不在を際立たせる。
住んでいた人は別の場所に住居を移し、新しい生活を始めているのだろうが、
まだ家が建っていたころの景観を思い出し、跡地だけをみている者は、
そこで暮らしていた人がただただ消えてしまったように思えるのだ。
住んでいた人を知っているわけではないから、すべてが想像上のものだけれど、
だからこそのさみしさだ。
写真を撮った日、日差しがあんまりあふれていてなんだかせつないほどだった。
2軒の家が線対称の間取りだったことがわかる。
風呂のタイルは、みずいろとピンクだったんだな。キキララみたいでかわいい。
エーツーのイメージカラーもリーベ=ラムネ色、2コ=どピンクだから親近感。
間取り図まんま。
人の暮らしってのは、こんな空き地を自分のものにして、それで事足りてたんだな。
つつましいものだな。と、こうなってみてわかる。
色つきのタイルがどうにも泣ける。
ここいらの家はトタンと木でできてる、ちいちゃな家ばかりだった。
木のベランダにやる気のない洗濯物がいとおしくぶら下がって、
発泡スチロールの箱や植木鉢に無秩序に花が植わっていて、
そのごみごみした咲き方がとても好きだったのだ。
今ははびこった雑草が、我が物顔で咲いている。
植物はすぐ入り込んでくる。
とても青々と繁っている。こいつら笑ってるんじゃないかというくらい青い。
こんなに影が濃い。タイツをはいているわたしの影。脚ふといなー。
そう、ここの生垣にアオキがあったのはおぼえている。
生垣がぐんぐん育って、「うろ」ができるほど立派になっていたことが、
切り株をみて初めてわかる。
陽光にさらされた風呂のタイルというものはへんな感じだ。
そして、妙にきれいだ。
この「遺跡」は、子供の格好の遊び場なんじゃないかと思ったが、
遊んでいる子供を見たことがない。
散歩の老人が、住人だったのか、ちょっとおもしろがっているのか、
それはわからないが、家と家のすきまの通路だったのであろうところをたまに通っている。
きっとこの風景もすぐなくなってしまう。
森との関連になるが、生垣ってやつはずいぶん育つ場合もあるのだな、とそこをまず思ったのだ。
伐ってるところもみていたので、ああもったいない、と。
でもこれは住人の意図で生垣という用途で植えられた木だ。
用途が終わったら切り倒されて当然のものなんだ。
逆に、と、若者っぽい口調で続きを考えた。
逆に、生垣がうっかり森になることもあるよね。
何かの拍子に人間だけが滅んだら。
生垣はどこまでも木の生命を謳歌し、
鳥が種を運び、
積もった落ち葉はふかふかの豊かな土になり、
生垣の名残を留めつつ、森になる可能性もあるよね、と。
うちの庭で、妹が埋めたドングリが芽を出し、育ち、2階の窓よりでかくなっている。
今年そいつが実をつけた。
つまり繁殖できるのだ。
両親が邪魔がって枝を払ったりしているが、
放っておけば森になる。
妹は、「おうちの庭が森になったらいいと思って」と、トトロのまねをしてドングリを埋めた。
わたしたちがみんな死んで、もっともっと経っても木が伐られなければ、
ここは森になるという可能性を秘めている。
人間が破壊のために持ちすぎた力を発揮せず、植物の育つに任せれば、
地球が森になる。
いや、環境のためとかエコとかは置いといて、
そうしろ、伐らないで森にしろ、と言っているのではなくて、
そういうふうにしたら、森だらけになりうる、と想像するのがおもしろいのだ。
それを自分の目で見ることはぜったいにできないが、
そうなってほしいようでもある。
神社の裏の遺跡は、遺跡のままで、植物が生い茂るままでいてほしいようでもある。
もっともっと、緑で覆い尽くしてほしいようでもある。
この「ほしい」というのが、どこから湧いてくる気持ちなのかはわからないが。
★2コ返事(コメント欄からコピペ)
っひょう!!!白江家もブルボン家!!!!
あーあーうちもココナツサブレありました。やっぱりあんまり好きじゃないです…
ブル菓子、たぶんパッケージとかマイナーチェンジはしてるんだろうけど昔からそんなには変わってないんだろうな。そしてわたしが今もっとも注目しているのが、コンビニ向けに展開している「クラッシュルマンド」や箱入りルマンドのパッケージのヒドさです。特に箱のやつ!!だせえ!!!
☆東上線のがらぱち さんより。
駄菓子喰いつつおコー茶呑みつつオカンアートこさえつつトシを重ねゆく君ら女子って、よく見ると存在自体がブル菓子ですな。
★2コ返事(コメント欄からコピペ)
今全世界の女子を敵に回しましたね!?
存在自体がブル菓子…いやああああああっ!!
ちがうもん。女の子はお砂糖とスパイスとすてきなもの何もかもでできてるんです。お砂糖と蝋みたいなクリームと南部せんべいみたいなクレープでは、誓ってできてないんですよお!!
☆SAEさんより。
2コちゃん 私もブルボン家!しかも サブレもアスパラも。。。
でもね、うちは貧乏だったし、それらをおやつの時間には姉弟それぞれティッシュに五個ずつとかもらってました。しかも大好きでした もったいなくてすこしずつしかたべれませんでした。
たぶんお客様用をかねておいてあったんだとおもいます。毎日もらえるものではなかったから。。。
あ、家庭訪問にもブル菓子でしたね。今でも好きです。母のやさしい味ってかんじ。。
たまに食べるとおいしいと思うけど(もちろん今のお菓子のデリシャスさとはちがうけど。。。)自主的に買おうとは思いませんね やっぱり。。。
もちろん うちの子供も食べません。今の子は食べないよね。
でも、超ロングセラーですよね。なぜかしら。。。おばちゃんになったら買うようになるのかな???